舟運         船着場(左=平成13年、右=大正2年)
     

 

新河岸川
埼玉県川越市で不老川その他の河川を合わせて荒川とほぼ平行して流れ、
東京都北区の岩淵水門で荒川本流と合流し、隅田川となる。
流長約26km。この川は、江戸時代初期から昭和初年までの約300年間、
川越と江戸を結んだ舟運が発達し、貨客を運び大いに利用された。
その始まりは、寛永15年(1638)正月、川越仙波東照宮が大火のため焼失、
その再建資材を江戸から新河岸川を利用して運んだことによる。この舟運が本格的に開始されたのは、松平信綱が川越藩主となってからで、領内の伊佐沼
から流れる川に多くの屈曲をつけ、舟の運行に適するよう水量保持の工事をした。
川越五河岸(上・下新河岸・扇・寺尾・牛子)をはじめ下流に福岡、古市場、百目木(どうめき)、伊佐島、蛇木、本河岸、鶉(うずら)、山下、前河岸、引又、宗岡、宮戸、根岸、新倉といった河岸場がつぎつぎ開設され、積問屋が建ち並び、
新倉「川の口」で荒川に合流していた。
舟の種類は、並船、早船、急船、飛切船などがあった。並船は一応の終着地の浅草花川戸まで一往復7〜8日から20日ほどかかる不定期の荷船。早船は乗客を主として運ぶ屋形船。急船は一往復3〜4日かかる荷船。飛切船は今日下って明日上るという特急便であった。
舟の形は普通「高瀬舟」で、7〜80石積み、川越方面からは俵物(米、麦、穀物)、薩摩芋や農産物、木材などを運び、江戸からは肥料類をはじめ、主に日用雑貨品を運搬した。
舟運の全盛期は幕末から明治初期までであった。やがて明治28年(1895)に川越鉄道、同39年川越電気鉄道、さらに大正3年(1914)に新河岸川とほぼ平行して東上鉄道が開通すると、積荷が鉄道に奪われ一段と舟運が衰微していった。
同時に大正9年から昭和6年(1931)まで洪水防止のため、河川改修が行われた結果、流路が10キロメートルも短縮され、水量が保てず水運に支障を来たし、舟運は終わった。(日本交通史料−吉川弘文館より)

  

      

河岸場地図












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