神社・仏閣

[日枝神社]

 日枝神社は、日吉神社、山王神社とと  もに主な御祭神を「大山咋神(おおやま くいのかみ)」とし、全国に約2,000社  あり、御本社は滋賀県大津市に鎮座す る日吉大社である。平安時代、最澄(さ いちょう)比叡山にすでに祭られていた 日吉の神を守護神とし延暦寺を建立し、 天台宗を開いた。この御本社の日吉神 社は古来皇室の崇敬があつく、一方江 戸(赤坂)に祭られた日枝神社は、江戸 城の鎮護として徳川幕府の特別な崇敬 を受け、現在では時の総理大臣が氏子 となる神社である。



 下新河岸の日枝神社は、「新編武蔵風土記稿」によると下新河岸村の項に「山王天王 天神合社」と記載されているが、幕末の慶応3年(1864)正月に描かれた下新河岸絵 図(斉藤文夫氏所蔵)には、山王様以外の天王、天神の記載はない。
 この山王様の創建時代は不明であるが、蓮華院の開基とほぼ同時期と考えられる ので、蓮華院の関連古文書から正保4年(1649)以前の数年間に特定できる。また、 「山王」を「日枝神社」と命名したのは、明治天皇であると言われている。
 江戸と川越を結ぶ新河岸川の水運流通センターとして、当時砂村から独立し「新河 岸(新川岸)村となってから創建されたものと想像できる。
 神道としての山王様と天台宗仏教の蓮華院との組み合わせは、川越仙波の喜多院 住職の天海大僧正が提唱していた「山王一実神道」にかなった仏本神従(ぶっぽん しんじゅう)の様式を備えている。
 明治3年(1870)下新河岸に大火があり、日枝神社及び観音堂も焼失した。この災難 が福に転じて当時厳しかった廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動の対象から外れ、今 となれば江戸期の名残として同じ境内に神仏が同居する非常に稀な神仏混交の様 式を残している。
 現在の本殿は、下新河岸の齋藤コマさんが現川越市立高階小学校に奉安殿として 、教育勅語と昭和天皇及び皇后の尊像(みことぞう)を安置する目的で建立し、寄贈 したものである。敗戦後皇国思想を排斥するため奉安殿処分の命がだされ、寄贈元 の下新河岸日枝神社の本殿として衣替えをした。なお、既存の本殿は下新河岸厳  島神社として活用することとした。
    所在地=川越市大字下新河岸55番1


        新嘗祭

厳島神社
 厳島社の祭神は、「市杵島比賣命(いちきしまひめのみこと)」となっている。厳島社  は、「弁財天」という仏教のような名称を純神社名に変更し、「名を変え実を取って」 残ったものである。

[弁財天・琴平社・水神社]
  

 上新河岸の鎮守は、弁財天を村の守り神として艮(うしとら=鬼門の位置)にあたると ころに祀られていた。この弁財天は、8本の手にそれぞれ武器を持った武装八臂(ぶ そうはっぴ)の姿で陽刻(ようこく)されている。明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)時  に、この弁財天は、厳島神社として村社に、文化2年(1805)9月勧請になる娑伽羅  龍王(さがらりゅうおう)は水神社(すいじんじゃ)(祭神名は彌都波能賣命(みずはのの めのみこと))に、文政3年(1820)12月勧請になる金毘羅大権現は琴平社(祭神名は 金山比古命(かなやまひこのみこと)・金山比賣の命(かなやまひめのみこと))と日本 の神様に改名して難を逃れたようである。
 大正14年(1925)1月上新河岸の村社だった「厳島神社」は下新河岸厳島神社の南 側並びへ、「」は日枝神社の南東石垣の上へ、
 「水神社」は観音堂裏手の湧水の側に新河岸川上流を望むように移設された。
 なお、「水神社」は平成9年に新河岸川治水工事のため移設され、弁財天の南側に 鎮座している。

[観音様]
所在地=川越市大字下新河岸56番地1号

 本尊は正観音(しようかんのん)、木野目長者の 建立と言い伝えられている。古文書によれば古  谷本郷天台宗「灌頂院」の末門19寺の一つで「 蓮華院岸光山観音寺(れんげいんがんこうざん  かんのんじ)」と呼ばれていたようである。現在の 本尊は寺尾勝福寺第48世住職の故高栖文隆  大和尚から寄贈されたものて゛ある。観音堂の  建立年代は不明であるが、灌頂院の古文書のう ち正保4年(1649)11月24日付けの文書の中に「 蓮花院」の記載がある。また、このお堂の開基と 伝えられている杉山家の屋敷跡(現・川越市立 南古谷小学校付近)には、何基かある卵塔のう ち最古の墓石に「寛永19年(1642)3月6日」、「 空風火水地正學院殿権大僧都(くうふうかすいち しょうがくいんでんごんのだいそうず)」ときざまれ ている。
 江戸と川越を結ぶ新河岸川の水運流通センター として当時川越藩領に属していた砂村内(因みに寺尾村は幕府直轄領の天領)に  新村として「新河岸」を採りあげたのが知恵伊豆として名高い松平伊豆守展信綱で、 忍藩から川越藩へ配置換えとなったのは、寛永16年(1639)1月5日であることはは っきりしている。従って信頼度の高い建立年代は寛永16年から正保4年の10年間 の幅であり、伝承を信じると寛永16年から寛永19年の3年間に狭めることができる 。今から350年以上前のことである。
観音様の縁日
 8月9日「ババマチ」 この日お参りすればご利益が四万三千日分という功徳日であ る。(近年は諸般の事情により割愛)
 8月17日「ジジマチ」 この日お参りすればご利益が四万八千日分という功徳日で  ある。また、この日には寺尾山勝福寺住職により「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第 二十五」通称「観音経」の読経並びに新河岸・寺尾地区の御詠歌の会員により「観  音和讃」などの御詠歌が奉納されます。
建造物
 「新編武蔵風土記稿」によれば、堂の入り口の上に「五三の桐(清和源氏の畠山氏 及び豊臣秀吉が使用)」を並べて、その下に「三鱗の紋(桓武平氏の北条氏が使用 )」があり、堂宇も壮麗であったと記されている。しかし残念なことに明治3年(1870)4 月22日、下新河岸の大火により、日枝神社もろとも焼失してしまった。観音堂の再  建は、日枝神社が明治14年(1881)に対して、大正6年(1917)に金五〇〇円也で、  当時の村民を初は勿論のこと近隣や河岸関係者の有志によってなされた。24年も 遅れたのは、明治初期の廃仏棄釈運動の影響かもしれない。


正観音(しようかんのん)


8月17日「ジジマチ」


読経(観音経)とご詠歌(観音和讃ほか)

写経(観音経)

仁王像

               

 観音様境内の入り口に左右一対の石碑が建っている。高さ2mの根府川石で、前面 には仁王像(右・阿形像、左・吽形像(うんぎょうぞう))が彫られ浮世絵師の英派六  代目「英一笑信俊謹画(はなぶさいっしょうのぶとしきんしょ)と刻印されている。石碑 の裏面は弘法大師像で江戸浅草の絵師、出口三拙(でぐちさんせつ)の花押(かお う)入り署名がある。また、弘化三(1846)丙午年願主鈴木金兵衛 石工長蔵と記  されている。金兵衛は越生黒岩の生まれで江戸小網町に出て財をなし、晩年は神  社仏閣を回り古帳庵(こちょうあん)の俳号で句碑を奉納。また、生まれ故郷の越生 町黒岩の五大尊境内には、百基を超える四国、西国、秩父、坂東札所の「札所写」 がある。この札所写と思われる石碑八基が当地観音堂南斜面に置いてある。これら 仁王像や札所写の石碑は、船便で新河岸川を上り上新河岸で荷揚げされ、陸路で 越生の五大尊まで運ばれる予定であったものと言われている。越生町黒岩の五大尊にこの石碑のレプリカが完成・設置され平成29年5月3日に一般市民に公開披露されました。


[馬頭尊の石塔]
 観音堂の左前面には、「明治八年乙亥(1875)三月吉日再建」された馬頭尊の文  字塔がある。
 この馬頭尊は、絵馬市で名高い東松山市上岡の観音「妙安寺」から分霊したものと 言われている。願主は寺尾、砂、牛子、南田島、藤間、木ノ目、大中居の各村1名な いし3名からなる計19名の「川岸馬連中」で新河岸の世話人は「小嶋小次郎」(現・ 池留)、「榎本磯吉」(現・榎本鉄工)・「惣滑谷八右衛門」と「惣滑谷半右衛門」(屋号 池田屋、現・杉浦家)及び「小嶋佐十郎」(屋号美濃屋、現旭橋南河川敷内)と記さ  れている。
 この馬頭観音の大祭は、上岡妙安寺より4日早い2月15日に「馬祭(ウママチ)」と 呼ばれ、執り行われてきたが、戦後経済構造の変化とともに、馬に替わって車社会 となったため、現在、大祭は行われていない。



東洋堂大正5年(1916)3月5日発行 風俗画報第478号から引用転載





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